「郷愁と彼方の非線形」―TR-08を使ったリズム

羊とグアナコ―その刹那の遊宴

【「Sheep and Guanaco」のオーディオ・クリップ】
去る11月5日、自己批判ショーで活躍中の紺野秀行さんに、“カズー”(Kazoo)と“サイレン・ホイッスル”(Siren Whistle)の楽器で即興演奏をしてもらい、レコーディングをおこないました。曲名は「Sheep and Guanaco」と言います。アルバム『Gの洗礼』収録曲となる予定です。
昨年の4月に紺野さんには、カスンケを演奏してもらいレコーディング(「紺野さんのカスンケ―そのアフリカンなリズム」参照)しましたが、今回どんな楽器でどんな演奏をしてもらうのか、事前にほとんど打ち合わせしませんでした。私はアフリカン太鼓を想像していましたけれども――。レコーディングの日の夜、Pro Toolsを立ち上げ、マイクロフォンをセッティングして待機していたところ、紺野さんが現れ、カズーとサイレン・ホイッスルを取り出したので、ちょっとびっくり。でも、そのままそれで即興演奏をしてもらいました。マイクロフォンは、SHURE PG56です。

こうした状況でオールマイティな成果を発揮してくれるダイナミック型のマイクロフォンPG56は、非常に助かります。あらゆる楽器に対して万能とも言えます。“カズー”は、もともとアフリカの楽器だそうで、分類的には膜鳴楽器となります。
日本では昔からブーテキという名で知られていますが、子供の頃、セロハンを唇に付けて震えさせて音を出して遊んだ人もいるでしょう。あれと同じです。私は、トランシーバー(無線機)の対話を真似して遊んだことがありました。実際、そういうトランシーバー型のオモチャがあって、マイクに当たる部分には、セロハンが張られていたのです。確かに、セロハンに反射した音は、複雑に響いて交信の際のノイズのようにきこえます。
それから“カズー”と言うと、個人的にはシュガー・ベイブの「すてきなメロディー」を思い出します。この曲の2015 Remixヴァージョンでは、幻のテイクだったカズーのパフォーマンスを聴くことができるのです。

【プリアンプとして使用したNeve 1073】
「Sheep and Guanaco」では、このカズーの即興演奏の中で、途中で相づちを打つように入ってくるのが、サイレン・ホイッスルの、まさにとぼけたサイレン音。紺野さんはこの2つの楽器を、顔の目の前で相互に差し替えて演奏していました。たいへん愉快な演奏でした。4分ほど演奏してもらいましたが、録りではUADのNeve 88RSチャンネル・ストリップを挿しておき、その前段のプリアンプNeve 1073のゲインをそれなりに持ち上げ、極力楽器をマイクロフォンに近づけてもらい、88RSで深めのコンプ処理を施しました。とてもユニークな演奏であり、今アルバムの収録曲としては、奇抜な部類に入るかと思います。

【中央に見えるのがSONY MU-R201】
翌日、ある程度のミキシングの作業をおこないました。この曲に関しては前日のレコーディングが終わった直後に、それをモニターで聴き、他のパートのダビングはいらないと判断したので、紺野さんのソロ演奏のトラックには、ヴィンテージのリバーブ・マシーンによるリバーブを付加することにしました。名機であるSONY MU-R201リバーブ・マシーンです。
このMU-R201は私が演劇をやっていた90年代の初期、音楽制作の上でかなりの頻度で使用していたリバーブ・マシーンです。90年代半ばになって、SONYの新しいマルチ・プロセッサーのエフェクターに食指が動き、思い切ってMU-R201を売却してしまい、後でたいへん後悔しました。6年くらい前だったか、再びこのMU-R201の中古品を入手することができました。今回の使用では、MU-R201は最高のパフォーマンスをしてくれました。プリセットNo.2の“PLATE”で、リバーブ・タイムは3.5sec。紺野さんの愉快な演奏を柔らかな残響が見事に包み込んでくれています。

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アメリカの人類学者アン・チャップマン(Anne MacKaye Chapman)の著書“Hain: Initiation Ceremony of the Selknam of Tierra del Fuego”の日本語訳版(大川豪司訳・新評論)によると、ティエラ・デル・フエゴの大西洋岸に牧場(ビアモンテ)が開拓されたのは1902年で、概ね、セルクナム族は牧場主に雇われ、その頃は牧場の仕事に従事しました。所有者は宣教師トマス・ブリッジズの親族で、虐待はなかったとのこと。羊飼いは牧場の仕事の象徴でもあります。
彼らセルクナム族は本来、狩猟民族です。グアナコ(ラクダ科の哺乳動物)を主な生活の糧としていたことと対比して考えると、20世紀の初頭で彼らの生活は、良くも悪くも大きく一変してしまったわけです。良くも悪くも――という言い方は少々適切ではなく、主体的に共同体がそれを望んだのではない、狩猟による“自由な節度ある生活”を捨てざるを得なかった背景には、西洋人の移民者と共存しなければならない、いや共存を強いられ、被搾取階級の労働者となってしまった現実というものがあります。

「Sheep and Guanaco」というタイトルには、諸々、そういう含みを込めています。私はその彼らの生活の極端な変化というものを、音になぞらえ、カズーとサイレン・ホイッスルの対比・対照で表しました。
しかしそれでいても、ここに主客の感情は上乗せすることはできない。ある意味無邪気だったとも言えるもともとの土着の生活が、移りゆく時代の「開拓と排除」というどうしようもない大きな力によって崩壊していく過程に、紛れもないいたたまれなさを感じるけれども、まずいったん何よりも、音楽として彼らの真の「無邪気さ」を表し、その彼らの実存を想像して表現することが大事だと、私は思うのです。

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